INICIAR SESIÓN声が出ない朝に、喫茶こもれびは開店した。
普通なら、店を閉めるべきだったのかもしれない。
元炎上実況者の俺の名前が、またネットでざわつき始めている。
ソファでは、休止中の人気VTuberの中の人が声を失って眠っている。 神谷レンは、綺麗な言葉で火種を投げている。 事務所の真柴さんは、火消しの文章を打っている。そんな状態で、呑気にコーヒーを淹れている場合ではない。
だが、喫茶店というのは面倒だ。
シャッターを上げなければ、外から見ると「何かあった店」になる。
閉めても心配される。 開けても心配される。 休むにも理由がいる。これは配信と少し似ている。
だから俺は、いつも通り、開店準備をした。
床を掃く。
テーブルを拭く。 カウンターに砂糖の瓶を並べる。 昨日から何度も使った白湯用の小さな鍋を洗う。 芽衣が持ってきた卵焼きの容器を冷蔵庫に入れる。コーヒーミルに豆を入れると、がりがりと乾いた音がした。
その音で、ソファのこはるが少し動いた。
「悪い。起こしたか」
こはるは毛布の中から顔を出し、小さく首を横に振った。
声は出ない。
彼女はテーブルに置いてあったメモ帳を引き寄せ、ペンを取った。
【大丈夫です】
丸い字だった。
月乃こはねの配信画面に流れるポップなテロップとは違う。
少し幼くて、丁寧で、線の最後が遠慮がちに細くなる字。「無理して書かなくてもいいぞ。首を振るだけでも通じる」
こはるは少し考えてから、また書いた。
【声が出ないので、書けると安心します】
「そうか」
安心。
それなら、書けばいい。
俺はカウンターの中を探して、古いメモ帳を三冊出した。
叔父が仕入れの計算に使っていたものだ。表紙には「令和三年 コーヒー豆」と書いてある。中身はほとんど空白だった。「これ使え。うちの店、紙だけは無駄にある」
こはるは受け取って、表紙の文字を見た。
そして少しだけ目を細める。
【令和三年】
「ああ。叔父さんのやつだ。たぶん三ページ目くらいに、コーヒー豆の仕入れと一緒に“源さんまずいと言う”ってメモがある」
こはるが目を丸くした。
【本当に?】
「本当に。源さんは叔父さんの代からまずいって言ってたらしい」
こはるは、メモ帳をめくった。
三ページ目。
そこには、叔父の角ばった字でこう書いてあった。
『豆、多めに仕入れ。源三、今日もまずいと言う。完飲』
こはるの肩が、小さく震えた。
笑っている。
声は出ない。
でも、笑っている。「完飲してるのにまずいって言うんだよ。あの人、たぶん文句がないと死ぬ」
こはるはペンを走らせる。
【源さんらしいです】
「昨日今日で、もう源さんらしさ分かるのか」
【ほうき】
「あれは強烈だったな」
こはるはまた少し笑った。
その時、表の扉が開いた。
からん、とベルが鳴る。
「黒瀬」
噂をすれば、源三さんだった。
作業着にベスト。
手には、ほうきではなく新聞。 ほうきじゃないだけで、少し安心する自分がいる。「おはようございます」
「コーヒー」
「開口一番それですか」
「喫茶店だろ」
「まあ、そうですけど」
源三さんは、こはるの方をちらっと見た。
「娘、声は」
こはるは首を横に振った。
「まだ出ません」
俺が代わりに答えると、源三さんは「そうか」とだけ言った。
同情もしない。
大げさに心配もしない。 ただ、事実として受け取る。その距離感は、今のこはるには少し楽なのかもしれない。
こはるはメモ帳に何かを書き、源三さんに向けた。
【おはようございます】
源三さんは、その文字をじっと見た。
「字が丸いな」
第一声がそれか。
俺は思わず突っ込む。
「源さん、そこですか」
「挨拶は見れば分かる。字は見なけりゃ分からん」
「理屈は通ってるような、通ってないような」
こはるは少し迷って、また書いた。
【コーヒー、まずいですか】
源三さんは、眉間に皺を寄せた。
「飲んでから言う」
「まだ淹れてません」
「早くしろ」
「はいはい」
俺はコーヒーを淹れた。
湯を注ぎ、蒸らし、落とす。
香りだけは悪くない。 いつも思う。香りだけなら、うちのコーヒーはけっこう戦える。問題は、飲んだ後だ。
カップを源三さんに出す。
源三さんは一口飲んで、いつもの顔をした。
「まずい」
こはるがメモ帳に何かを書き始める。
【完飲しますか】
「する」
即答だった。
こはるの肩がまた震えた。
源三さんはコーヒーを飲みながら新聞を広げた。
「黒瀬」
「はい」
「表の看板、出とらんぞ」
「あ」
完全に忘れていた。
開店準備をしたつもりで、肝心の看板を出していない。
これでは、店を開けているのか閉めているのか分からない。俺は店先の黒板看板を取りに行こうとした。
すると、こはるが毛布から手を出して、小さく俺を止めるように動かした。
「ん?」
こはるはメモ帳に書く。
【私、書いてもいいですか】
「看板を?」
頷く。
「別にいいけど。立てるのは俺がやるぞ」
こはるはまた頷いた。
俺は黒板看板とチョークを持ってくる。
普段は、俺が適当に書いている。
『本日のおすすめ ブレンドコーヒー』
『ナポリタンあります』 『雨の日ポイント二倍 ※ポイントカードはありません』最後のやつは源三さんに「詐欺だ」と言われた。
こはるはチョークを持つと、しばらく黒板を見つめた。
声が出ない代わりに、文字で何かを伝える。
その行為が、彼女にとって今どんな意味を持つのか、俺には分からない。ただ、彼女は真剣だった。
ゆっくり、白いチョークで書き始める。
『本日のおすすめ
少し苦いカフェオレ 甘い卵焼きはありません でも白湯はあります』俺は吹き出した。
「何だこれ」
こはるが少し不安そうに俺を見る。
「いや、悪くない。悪くないけど、甘い卵焼きは日向弁当の持ち込みだぞ。うちの商品みたいに書くな」
こはるは慌ててチョークを持ち直す。
消そうとするので、俺は止めた。
「いや、そのままでいい。芽衣が見たら喜ぶ」
源三さんが新聞の向こうから言った。
「白湯は金を取るのか」
「取りませんよ」
「なら、商売にならん」
「源さんがコーヒーまずいって言いながら毎日飲むのも商売としてどうかと思いますけどね」
「わしは金を払っとる」
「強い」
こはるは少し考えて、看板の下に小さく書き足した。
『まずいコーヒーもあります』
「おい」
俺は思わず声を上げた。
こはるがびくっとする。
「いや、怒ってない。怒ってないけど、店主としては複雑」
源三さんが、カウンターで肩を揺らした。
笑っている。
あの源三さんが、少し笑っている。「いい看板だ」
「よくないですよ。営業妨害ぎりぎりですよ」
「正直でいい」
「喫茶店で正直すぎるのは危険なんです」
こはるは、おそるおそるメモに書いた。
【消しますか】
「いや」
俺は黒板を眺めた。
本日のおすすめ。
少し苦いカフェオレ。 白湯。 まずいコーヒー。変な看板だ。
だが、妙に喫茶こもれびらしい気もする。
「そのまま出す」
こはるの目が少しだけ大きくなる。
【いいんですか】
「いい。どうせ源さん以外ほとんど来ない」
「おい」
源三さんが睨む。
「本当のことです」
「本当のことを客の前で言うな」
「さっき正直でいいって言ったの誰ですか」
俺は看板を持って店先に出した。
商店街の朝の空気は、まだ少し冷たい。
シャッターが半分だけ上がった模型店。
八百屋の親父の咳払い。 日向弁当の方から漂う出汁と油の匂い。その中に、こはるの書いた看板を置く。
白い字が、少し震えている。
でも、ちゃんと読める。
俺は店に戻り、こはるに親指を立てた。
「出した」
こはるは、少し照れたようにメモ帳を抱えた。
その三十分後、看板を見た最初の客が来た。
佐伯さんだった。
いつものように、上品なコートを羽織り、ゆっくり店に入ってくる。
朝からナポリタンを食べる人ではない。 だが、今日は看板の前で三十秒ほど立ち止まってから入ってきた。「黒瀬くん」
「はい」
「あの看板、あなたが書いたの?」
「違います」
「あら」
佐伯さんの視線が、ソファのこはるに向く。
こはるは少し緊張したようにメモ帳を握った。
「その子?」
「はい。今、声が出ないので、文字担当です」
こはるが小さく頭を下げる。
佐伯さんは、こはるをじっと見た。
そして、柔らかく笑った。
「字がかわいいわね」
また字だ。
この商店街、まず文字を褒める文化でもあるのか。
こはるはメモ帳に書いた。
【ありがとうございます】
「こちらこそ。白湯、あるの?」
佐伯さんが聞く。
「ありますけど、本当に白湯ですよ」
「いいじゃない。朝から胃が疲れているの」
「まだ朝ですよ」
「朝から疲れる日もあるのよ。黒瀬くん、女心が分かってないわね」
「ナポリタンの時も聞きました、それ」
俺は白湯を出した。
佐伯さんはカウンターではなく、窓際の席に座った。
白湯を両手で持ち、ひと口飲む。
「優しい」
「白湯が?」
「白湯が」
「日向家監修です」
「何それ」
「俺もよく分かってません」
佐伯さんは笑った。
それから、こはるに目を向ける。
「あなた、白湯好き?」
こはるは少し迷い、メモ帳に書いた。
【最近、好きになりました】
「そう。いいわね。好きなものが最近増えるのは、いいことよ」
佐伯さんはそう言って、また白湯を飲んだ。
こはるは、その言葉を何度か読み返すみたいに、少し黙った。
好きなものが最近増えるのは、いいこと。
昨日、こはるは言った。
嫌じゃないものが増えました、と。ココア。
味噌汁。 唐揚げ。 卵焼き。 カフェオレ。そして、白湯。
どれも小さい。
でも、その小ささが今は大事だった。
昼前になると、芽衣がまたやってきた。
今日はエプロンの上からジャンパーを羽織っている。
片手には弁当袋。もう片方には、なぜかスマホ。「看板見た!」
入ってくるなり、芽衣は声を弾ませた。
「こはるちゃん、あれ書いたの?」
こはるは頷く。
芽衣はスマホの画面を見せた。
そこには、店先の黒板看板の写真が映っていた。
『本日のおすすめ
少し苦いカフェオレ 甘い卵焼きはありません でも白湯はあります まずいコーヒーもあります』「何撮ってるんだよ」
俺が言うと、芽衣は胸を張った。
「商店街グループに送った」
「何してんだ」
「みんな笑ってたよ。八百屋のおじさんが“まずいコーヒー気になる”って」
「来なくていい」
「来てほしいでしょ」
「来てほしいけど、まずい目当ては複雑」
こはるがメモ帳に書く。
【怒られますか】
「怒られない。売上につながるなら店主はだいたい許す」
芽衣が笑いながら頷く。
「それでね、うちのお母さんが言ってた。こはるちゃん、字で店紹介できそうだねって」
こはるが首を傾げる。
「字で店紹介?」
俺も聞き返した。
「うん。喋らなくても、黒板とかポップとか書けるじゃん。商店街って、みんな説明が下手なんだよ。八百屋のおじさんとか、“今日のトマトどうですか”って聞いたら、“赤い”しか言わないし」
「それは説明以前の問題だな」
「模型店の朝比奈さんも、“このプラモデルどこがいいんですか”って聞いたら、“関節”って言う」
「専門家すぎる」
「源さんは何でも“まずい”か“古い”だし」
「源さんは店紹介向いてないな」
芽衣はこはるの隣に座った。
「こはるちゃん、そういうの書けないかなって。無理なら全然いいんだけど」
こはるは、少し驚いた顔をした。
自分が何かを頼まれたことに、戸惑っているようだった。
スマホではなく、仕事の依頼でもなく、月乃こはねとしてでもなく。
ただ、商店街の人間から、文字を書いてみないかと言われた。
こはるはメモ帳に書く。
【私でいいんですか】
芽衣は即答した。
「こはるちゃんがいい」
こはるの目が揺れる。
芽衣は、少し照れくさそうに笑った。
「だって、あの看板ちょっと面白かったし。白湯ありますって、普通書かないよ。でも、何か気になった。うちの店も、そういうの欲しい」
「日向弁当なら何書くんだ」
俺が聞くと、芽衣は腕を組んだ。
「本日のおすすめ。父が揚げすぎた唐揚げ」
「正直すぎる」
「母が止めたけど間に合わなかった唐揚げ」
「家庭内事情が見える」
「腰を犠牲にした唐揚げ」
「重い」
こはるの肩が震えた。
芽衣は嬉しそうに言う。
「ほら、こはるちゃん笑ってる」
こはるは慌ててメモ帳で口元を隠した。
【笑ってません】
「いや、それは無理がある」
俺が言うと、こはるは少しだけ俯いた。
【少しだけです】
「少しだけでいいよ」
芽衣は言った。
「少しだけ笑えるポップ、作ってほしい」
こはるは、じっとメモ帳を見つめた。
やがて、小さく頷く。
声は出ない。
でも、その頷きは、昨日の「戻りたくない」と同じくらい大事なものに見えた。
その日の午後、こはるは初めて店の外へ出た。
もちろん、一人ではない。
俺と芽衣が左右につき、源三さんがなぜか少し後ろから見張る。
完全に護送である。「これ、散歩か?」
俺が言うと、芽衣が答える。
「商店街視察」
「大げさ」
「こはるちゃん、声出ないんだから、こっちが大げさに守るくらいでちょうどいい」
こはるはメモ帳に書く。
【恥ずかしいです】
「慣れろ」
源三さんが言った。
「商店街は恥をかきながら歩く場所だ」
「どんな場所ですか」
「昔、祭りで黒瀬が迷子になって泣いた場所だ」
「源さん!」
俺は思わず声を上げた。
芽衣がすかさず食いつく。
「え、何それ。悠斗兄、迷子で泣いたの?」
「小学生の話だ」
「何歳?」
「忘れた」
「源さん」
「九歳だ」
「覚えてるんかい」
こはるがメモ帳に書く。
【泣いたんですか】
「泣いてない」
源三さんが即座に言う。
「泣いた」
「源さん、記憶違いです」
「泣きながら“かき氷がなくなった”と言っとった」
「迷子じゃなくて、かき氷の喪失で泣いてるじゃないですか」
芽衣が腹を抱えて笑った。
「悠斗兄、昔から面倒くさ!」
「九歳の俺を裁くな」
こはるも、声はないが、明らかに笑っていた。
街を歩く。
八百屋の前では、親父さんがトマトを並べていた。
芽衣が声をかける。
「おじさん、こはるちゃんがポップ書いてくれるかも」
「ポップ?」
八百屋の親父さんは、日に焼けた顔を上げた。
「何だそりゃ」
「野菜の説明。おじさん、“赤い”しか言わないじゃん」
「赤いもんは赤いだろ」
「そういうとこ」
こはるはトマトを見た。
丸くて、赤くて、少し不揃い。
スーパーに並ぶ綺麗すぎるトマトとは違う。親父さんが一つ手に取る。
「これはな、朝採りだ」
芽衣がこはるを見る。
「ほら、情報出た」
「何だよ情報って」
「甘いの?」
「甘い。皮はちょっと硬い」
「正直」
「嘘ついてどうする」
こはるはメモ帳に、下書きのように書き始めた。
【朝採りトマト
甘いです 皮は少し強いです 噛むと夏っぽいです】芽衣が覗き込む。
「いいじゃん!」
八百屋の親父さんも顔を近づける。
「夏っぽい?」
こはるは少し不安そうに頷く。
親父さんはトマトを見た。
「夏っぽい、か」
しばらく考えてから、にやっと笑う。
「いいな。もらうぞ、それ」
こはるの目が少し大きくなる。
【いいんですか】
「いいも何も、俺には出てこない言葉だ。赤いしか出ねえ」
「自覚あったんだ」
芽衣が言う。
「うるせえ」
八百屋の親父さんは、店の奥から段ボールの切れ端と太いペンを持ってきた。
「書いてくれ」
こはるは戸惑った。
けれど、ペンを受け取った。
段ボールに、ゆっくり文字を書く。
『朝採りトマト
甘いです 皮は少し強いです 噛むと夏っぽいです』字はやっぱり丸い。
けれど、野菜の前に置くと不思議と目を引いた。
親父さんは満足そうに腕を組む。
「これなら売れる気がする」
「トマトの実力も信じてください」
俺が言うと、親父さんは鼻を鳴らした。
「実力はある。説明がなかっただけだ」
こはるは、その言葉を聞いて少し動きを止めた。
実力はある。
説明がなかっただけ。それは、野菜の話だ。
でも、今のこはるにも何か刺さったのかもしれない。
次に向かったのは、模型店だった。
店主の朝比奈さんは、細い眼鏡をかけた五十代の男で、いつも店内でプラモデルの箱を並べ替えている。
客は少ない。 だが、棚の整い方だけは異様に美しい。「朝比奈さん」
芽衣が声をかける。
「この子、ポップ書いてくれるかも」
「ポップ」
朝比奈さんは、こはるを見た。
視線が少し鋭い。こはるが緊張する。
しかし、朝比奈さんは店の奥から一つの箱を取り出した。
古いロボットのプラモデルだった。
派手な赤い機体。 肩が大きく、剣を持っている。「これ」
朝比奈さんが言う。
「二十年前の再販。関節がいい」
「出た、関節」
芽衣が小声で言う。
朝比奈さんは真顔のまま続ける。
「最近のキットほど動かない。でも、立たせた時の重さがある。肩の軸がいい。膝もいい。あと、箱絵がいい」
「急に情報量が増えた」
俺が言うと、朝比奈さんは少しだけ照れたように目を逸らした。
「聞かれたから」
こはるは箱を見つめた。
しばらくして、メモ帳に書く。
【新しくないけど、立っている姿が強い
よく動くより、ちゃんと立つ方が似合うロボット】朝比奈さんの目が変わった。
「……分かるのか」
こはるは慌てて首を横に振る。
【分かりません。見た感じです】
朝比奈さんは、箱を見た。
「ちゃんと立つ方が似合う」
小さく呟く。
それから、深く頷いた。
「いい」
芽衣が小さくガッツポーズをする。
「こはるちゃん、すごい」
こはるはメモ帳を抱え、少し困った顔をした。
【すごくないです】
「すごいよ。朝比奈さんが“いい”って言うの、かなりレアだよ。前に私が“このロボット赤くてかっこいい”って言ったら、“赤だけじゃない”って怒られた」
「怒ってない」
朝比奈さんが言う。
「訂正した」
「それが怖いんだって」
こはるは、朝比奈さんが用意した小さなカードに文字を書いた。
『新しくないけど、立っている姿が強い。
よく動くより、ちゃんと立つ方が似合うロボットです。』朝比奈さんはそれを棚に置いた。
派手な箱の横に、丸い字のカード。
不思議と、似合っていた。
こはるはそれを見て、少しだけ頬を緩めた。
声が出なくても、彼女の言葉は商店街に置かれていく。
その次は、ゲームセンターだった。
昨日の夜、こはるが泣いていた場所。
昼のゲームプラザ・アサヒは、夜よりもさらに古びて見えた。
入口の自動ドアは手動に近い遅さで開く。
中には、懐かしい電子音と、少し埃っぽい匂い。 格闘ゲームの筐体が三台。 古いレースゲーム。 クレーンゲーム。 奥には、誰も座っていないメダルゲーム。店主の朝比奈さんとは別人で、ここは朝日奈ではなく「朝日さん」だ。
名前が紛らわしい。 商店街の七不思議の一つである。ゲームセンター店主の朝日さんは、七十近い痩せた男で、カウンターで新聞を読んでいた。
「いらっしゃい」
声はのんびりしている。
こはるが店内に入った瞬間、少しだけ足を止めた。
昨日の夜のことを思い出したのかもしれない。
俺は小さく聞く。
「大丈夫か」
こはるは頷いた。
芽衣が明るく言う。
「朝日さん、この子にゲーム紹介のポップ書いてもらおうと思って」
「ゲーム紹介?」
朝日さんは新聞を畳む。
「うちのゲーム、古いぞ」
「知ってます」
「新しい子には分からんだろ」
こはるは、店内を見回した。
そして、一台の格闘ゲームの前で止まった。
画面にはデモ映像が流れている。
荒いドット絵のキャラクターが、やたら派手な必殺技を出していた。こはるの目が、少しだけ変わる。
「やるか?」
俺が聞くと、こはるはびくっとした。
それから、メモ帳に書く。
【少しだけ】
朝日さんが、にやっと笑った。
「一回サービスだ」
筐体のボタンが光る。
こはるは椅子に座り、レバーに手を置いた。
その手つきで、俺は分かった。
この子、ゲームに慣れている。
当然と言えば当然だ。
月乃こはねは、ゲーム配信もしていた。 見ている時も、操作の飲み込みが早いと思っていた。声は出なくても、指は動く。
こはるはキャラクターを選び、CPU戦を始めた。
一戦目。
普通に勝った。
二戦目。
完勝した。
三戦目。
ボス前の相手を、見たことのない連続技で沈めた。
朝日さんが新聞を置いた。
「お嬢ちゃん、やるな」
芽衣が目を丸くする。
「こはるちゃん、強っ」
こはるは慌ててメモ帳を取る。
【たまたまです】
「たまたまで三連勝はしない」
俺が言うと、こはるは少しだけ耳を赤くした。
朝日さんは、筐体をぽんと叩いた。
「こいつ、昔はよく並んでたんだ。高校生が百円玉積んで、負けたら後ろに回ってな。今は誰も並ばん」
朝日さんの声は、寂しそうではなかった。
でも、少しだけ昔を見ている声だった。「壊れたら終わりですか」
俺が聞くと、朝日さんは肩をすくめた。
「部品があるうちは直す。なくなったら、まあ、飾る」
「飾るんですか」
「捨てるには、遊ばれすぎた」
その言葉に、こはるが反応した。
メモ帳に書く。
【遊ばれすぎたゲームは、捨てるより飾る】
朝日さんが笑った。
「いいな、それ。ポップにしよう」
こはるは、カードに書いた。
『遊ばれすぎたゲームは、捨てるより飾る。
でも、まだ遊べます。 一回だけでもどうぞ。』朝日さんは、それを筐体の横に置いた。
古いゲーム機の横に、丸い字。
それだけで、その筐体が少しだけ生き返ったように見えた。
こはるは、そのポップを見つめていた。
声が出ない。
それでも、彼女の言葉は誰かの店に置かれていく。芽衣が、スマホで写真を撮った。
「これ、商店街グループに送っていい?」
こはるは少し迷った。
そして、小さく頷いた。
「名前は出さないよ。“謎のポップ職人あらわる”って書く」
こはるが慌ててメモを書く。
【謎は恥ずかしいです】
「じゃあ、“白湯の人”」
【もっと恥ずかしいです】
「“卵焼き三切れの人”」
【やめてください】
芽衣は楽しそうに笑った。
「声出なくても、ツッコミできてるよ、こはるちゃん」
こはるは、その言葉に少しだけ動きを止めた。
それから、メモ帳にゆっくり書く。
【声じゃなくても、返せますか】
「返せてる」
俺は言った。
「だいぶ返せてる。むしろ文字だと遠慮なく突っ込んでくるな」
こはるは少しだけ頬を赤くした。
【すみません】
すぐに消す。
そして書き直す。
【迷惑かけます。ありがとう】
「それ、汎用性高すぎるな」
芽衣が笑う。
午後、俺たちは喫茶こもれびに戻った。
こはるは疲れたのか、ソファに座るなり少しぐったりした。
無理をさせたかと焦ったが、彼女はメモ帳に書いた。
【疲れました。でも、嫌じゃないです】
嫌じゃない。
その言葉が、また増えた。
俺は白湯を出した。
「今日はだいぶ働いたな。ポップ職人」
こはるは首を横に振る。
【職人じゃないです】
「八百屋と模型店とゲーセンのポップを一日で書いたら、もう職人見習いくらい名乗っていい」
【声が出ないだけです】
「声が出ないから、別のものが出たんだろ」
こはるは、ペンを止めた。
俺は自分で言ってから、少し照れくさくなった。
「今の、ちょっと偉そうだったな」
こはるは首を横に振る。
【少し、嬉しかったです】
「そうか」
【でも、怖いです】
「何が」
【声が戻らなかったら、文字の人になってしまう気がして】
「それはそれで、悪くないかもしれない」
こはるは俺を見る。
「いや、月乃こはねの声が戻らなくていいって意味じゃない。そうじゃなくて、声だけじゃない自分も、いていいんじゃないかって話だ」
【声だけじゃない自分】
「ああ」
【でも、ファンの人は声を待っています】
「だろうな」
【私も、声を届けたい気持ちはあります】
「うん」
【でも、今は怖いです】
「それも本当だろ」
こはるは、頷いた。
沈黙。
店内には、コーヒーの匂いがする。
昼過ぎの光が窓から入り、テーブルの上のメモ帳を照らしていた。その時、芽衣がふと口を開いた。
「ねえ」
「何だ」
「声が怖いならさ、名前も顔も出さないで、少しだけ何か喋る場所って作れないの?」
俺は芽衣を見る。
「何かって」
「分かんないけど。こはるちゃんが月乃こはねとして戻るんじゃなくて、白瀬こはるとしても名乗らないで。ただ、今日見た商店街のことを、ちょっと話すとか」
こはるが固まる。
俺も、すぐには返せなかった。
芽衣は自分の言葉に自信がないらしく、少し早口になる。
「いや、変なこと言ってたらごめん。配信とか全然分かんないし。声出ないのに喋れって言ってるわけじゃなくて。今すぐじゃなくて。何て言うか、月乃こはねに戻るのが怖いなら、別の小さい声の場所があってもいいのかなって」
「小さい声の場所」
俺は繰り返した。
芽衣は頷く。
「うん。うちの商店街みたいな。でっかいショッピングモールじゃなくて、終わりかけだけどまだ明かりついてる場所」
こはるの指が、メモ帳の上で止まる。
終わりかけだけど、まだ明かりついてる場所。
その言葉は、妙に残った。
「匿名ラジオみたいなものか」
俺が言うと、芽衣が指を鳴らした。
「それ! ラジオ! 映像なし、名前なし、顔なし、頑張りすぎなし」
「配信に戻るのが怖い相手に配信案を出すの、普通に矛盾してるぞ」
「だから、今すぐじゃないってば」
「いや、でも」
俺は考える。
匿名ラジオ。
顔を出さない。 月乃こはねの名前も使わない。 白瀬こはるとも名乗らない。 ただ、商店街のことを話す。今日書いたポップの話。
朝採りトマト。 立っている姿が強いロボット。 遊ばれすぎたゲーム。 まずいコーヒー。 白湯。 卵焼き。それは、月乃こはねの華やかな配信とは全然違う。
同接何万人の世界ではない。
たぶん、誰も来ない。 来ても数人。でも、だからこそ。
「……数字を追わないなら」
俺は呟いた。
こはるが俺を見る。
「いや、忘れろ」
俺はすぐに手を振った。
「今のは俺が悪い。配信から逃げてきた相手に配信の話するとか、普通に最低だ」
こはるは、メモ帳を握った。
芽衣も少し慌てる。
「ごめん、こはるちゃん。私も軽く言いすぎた」
こはるは、首を横に振った。
そして、ゆっくりペンを走らせる。
【ラジオ】
その文字を見た瞬間、俺と芽衣は黙った。
こはるは続けて書く。
【顔、出さなくていいんですか】
「出さなくていい」
俺は答えた。
【名前も?】
「いらない」
【月乃こはねじゃなくても?】
「むしろ、そうじゃない方がいい」
【白瀬こはるでもなくて?】
「それも名乗らなくていい」
【元気なふりも?】
「しなくていい」
【黙ったら?】
「俺が喋る」
こはるが、少しだけ目を丸くする。
「商店街の悪口とか、源さんがまずいって言う話とか、佐伯さんがナポリタンを半分残す話とか、芽衣の父さんが唐揚げを揚げすぎる話とか」
芽衣が抗議する。
「うちの父さんをコンテンツにしないで」
「もうなってる」
「なってた」
こはるはメモ帳に書く。
【それ、聞きたい人いますか】
「いない可能性が高い」
俺は正直に言った。
「同接ゼロもあり得る」
こはるは、なぜか少し安心したような顔をした。
【ゼロでもいいんですか】
「いいんじゃないか。元々、誰かに見せるためっていうより、ここに明かりがついてるって確認するだけのものなら」
芽衣が頷く。
「そうそう。商店街の夜の見回り配信みたいな。あ、源さんのほうき音とか入れる?」
「誰が聞きたいんだ」
「一部に刺さるかも」
「ほうきASMR?」
「やだ、ちょっと面白そう」
こはるの肩が震えた。
笑っている。
声はないけれど。
俺は言った。
「タイトルをつけるなら……」
少し考える。
商店街。
夜。 まだ明かりがついている。「夜の商店街、まだ明かりついてます」
口に出した瞬間、店内が少し静かになった。
芽衣が目を丸くする。
「いいじゃん」
「そうか?」
「いい。何か、うちの商店街っぽい。終わりかけだけど、誰かが電気消し忘れてる感じ」
「消し忘れなのか」
「いい意味で」
こはるは、そのタイトルをメモ帳に書いた。
【夜の商店街、まだ明かりついてます】
丸い字で書かれたその一文を、彼女はじっと見つめた。
そして、少し時間をかけて、次の文字を書く。
【一回だけなら】
俺は、彼女を見る。
「配信?」
こはるは小さく頷いた。
芽衣が息を呑む。
「こはるちゃん、本当に?」
こはるは慌てて首を横に振り、また書く。
【今すぐじゃないです】
「分かってる」
【声が出たら】
「うん」
【少しだけ】
「少しだけでいい」
【月乃こはねじゃなくて】
「違う名前でいい」
【名前、なくてもいいですか】
「いい」
【同接ゼロでも】
「いい」
【途中で黙っても】
「いい」
【泣いても】
「いい」
【笑えなくても】
「いい」
こはるは、そこでペンを止めた。
それから、震える指でゆっくり書いた。
【それなら、少しだけ、怖くないかもしれません】
俺は、言葉を失った。
芽衣が隣で鼻をすすった。
「やばい。私、また泣きそう」
「泣くな」
「だって、何か、卵焼きからここまで来ると思わないじゃん」
「確かに卵焼きから匿名ラジオはだいぶ遠いな」
こはるが少し笑った。
その時、表の扉が開いた。
からん、とベルが鳴る。
入ってきたのは、八百屋の親父さんだった。
手には、トマトが三つ入った袋。
「黒瀬」
「はい」
「あのポップ置いたら、トマト売れたぞ」
こはるが目を見開く。
親父さんは、照れくさそうに袋を差し出した。
「礼だ。形悪いやつだけど、味はいい」
こはるは慌ててメモ帳を書く。
【ありがとうございます】
親父さんは、その文字を見て笑った。
「こっちが礼を言うんだよ。声が出ねえのか」
こはるは頷く。
「なら、出るようになるまで字で稼げ」
「おじさん、言い方」
芽衣が突っ込む。
「仕事はある方がいいだろ」
「それはそうだけど」
親父さんは、トマトを置いて帰っていった。
そのすぐ後に、模型店の朝比奈さんが来た。
「ロボット、売れた」
短い報告だった。
こはるは、今度こそ本当に驚いた顔をした。
朝比奈さんは、紙袋を置く。
「お礼。余ってたニッパー」
「模型店のお礼、独特すぎません?」
俺が言うと、朝比奈さんは真顔で言った。
「良いニッパーだ」
「価値観が職人」
こはるはメモを書く。
【ありがとうございます。でも、使い方が分かりません】
「教える」
朝比奈さんは即答した。
そこへ、ゲームセンターの朝日さんまで顔を出した。
「一回だけでもどうぞ、って書いてあったから、本当に一回だけやって帰った客がいた」
「売上じゃないですか」
「百円だがな」
「百円でも売上です」
朝日さんは、こはるに小さな袋を渡した。
「景品の余り。変なキーホルダー」
中には、何のキャラクターか分からない丸い生き物のキーホルダーが入っていた。
こはるはそれを手に取り、少しだけ笑った。
【かわいいです】
朝日さんは満足そうに頷く。
「分かるか」
分かるのか。
俺には分からなかった。
気づけば、喫茶こもれびのテーブルには、トマト、ニッパー、謎のキーホルダー、卵焼き、白湯、メモ帳が並んでいた。
何屋だここは。
芽衣が、それを見て笑った。
「こはるちゃん、もう商店街の人になりかけてる」
こはるは驚いたように首を横に振る。
【そんな】
「なってるよ。お礼が物々交換になったら、だいぶ商店街」
「基準そこか」
俺が言うと、芽衣は頷く。
「そこ。あと、源さんに文句言われても逃げなくなったら本採用」
「商店街に採用制度あったのか」
こはるは、テーブルに並んだものを見つめた。
そして、メモ帳にゆっくり書いた。
【声が出ないのに、用がありました】
俺は、その文字を読んだ。
胸の奥が少しだけ詰まる。
昨日の夜、彼女は言った。
白瀬こはるには、誰も用がない。
でも今、八百屋も、模型店も、ゲームセンターも、彼女に用があった。
月乃こはねではなく、白瀬こはるに。 いや、名前すら知らない「謎のポップ職人」に。こはるは、まだ信じきれていない顔をしている。
だから俺は、言った。
「な?」
こはるが俺を見る。
「声だけじゃないだろ」
彼女は、すぐには返事を書かなかった。
ただ、長い時間、メモ帳の上にペンを置いたまま黙っていた。
やがて、ゆっくり頷いた。
外では、夕方の商店街に灯りがつき始めていた。
八百屋の裸電球。
日向弁当の蛍光灯。 模型店の小さなスポットライト。 ゲームセンターの古いネオン。 喫茶こもれびの看板灯。終わりかけの商店街。
でも、まだ明かりはついている。
こはるは、メモ帳の最後のページにもう一度書いた。
【夜の商店街、まだ明かりついてます】
そして、その下に小さく付け足した。
【声が出たら、一回だけ】
俺は、それを見て頷いた。
「一回だけな」
芽衣が横で言う。
「一回だけって言って、楽しかったら二回目やればいいよ」
こはるは少しだけ困った顔をした。
【楽しかったら】
「うん。怖かったらやめる。楽しかったらまたやる。お腹空いたら卵焼き」
「最後の接続がおかしい」
俺が言うと、芽衣は胸を張った。
「だいたい卵焼きに戻ればいいの」
こはるは、声の出ないまま、確かに笑った。
その笑いを見た時、俺は思った。
まだ配信ではない。
まだ声も戻っていない。 まだネットの噂も、神谷レンも、事務所も、何一つ片付いていない。けれど、小さな種は落ちた。
夜の商店街に、まだ明かりがついていることを誰かに知らせる。
それだけの、弱くて、頼りなくて、でも少しだけ温かい配信の種。
その種が芽を出すかどうかは、まだ分からない。
ただ、こはるはその日、声が出ないまま、商店街に三つのポップを残した。
そして夜、寝る前にメモ帳にこう書いた。
【明日の朝、声が少し戻っていたら、こんばんはの練習をしてみたいです】
俺はそれを読んで、少し笑った。
「朝にこんばんはの練習するのか」
こはるは、布団代わりの毛布にくるまりながら、真面目な顔で頷いた。
【夜は怖いので】
「なるほど」
俺は照明を落とした。
「じゃあ、朝にやるか。こんばんはの練習」
こはるは目を閉じる前に、もう一枚だけメモを書いた。
【約束ですか】
「約束」
彼女は安心したように頷いた。
その夜、スマホは何度も震えた。
俺のスマホも、こはるのスマホも。
けれど、こはるは起きなかった。
タオルに包まれたスマホの横で、彼女は小さく寝息を立てていた。
俺はカウンターに座り、まずいコーヒーを飲みながら、古いノートに番組タイトルを書いた。
『夜の商店街、まだ明かりついてます』
字は、こはるよりずっと下手だった。
でも、悪くない気がした。
第16話 役に立たない日のラジオ 翌朝、喫茶こもれびのテーブルには、白湯と卵焼きと、昨日のラジオのコメント欄が並んでいた。 正確には、コメント欄はノートパソコンの画面の中にある。 でも、感覚としては、テーブルの上に置かれているようだった。 白湯のカップ。 少し焼き目のついた甘い卵焼き。 日向弁当の小さなおにぎり。 そして、夜のどこかから届いた、知らない人たちの言葉。【いいと思う】【今日、何もできなかった】【仕事休んだ】【学校行けなかった】【一日布団にいた】【でも今これ聞いてる】【役に立てない日、あります】【生きてていいって言ってほしい】【白湯しか飲んでない】【でも白湯飲めたから勝ちにしたい】 白瀬こはるは、そのコメント欄を何度も読んでいた。 朝から、ずっと。 声は出していない。 喉を休ませるためでもあるし、昨日の電話と配信で、心の方が疲れているのもあった。 それでも、こはるは画面から目を離さなかった。 俺はカウンターでコーヒーを淹れながら、その様子を見ていた。「読みすぎると疲れるぞ」 こはるは、ホワイトボードに書いた。【疲れます】「じゃあ休め」【でも、読みたいです】「疲れるのに?」【はい】 少し間を置いて、彼女は書き足す。【私だけじゃなかったので】 その文字を見て、俺は何も言えなくなった。 昨夜、こはるはラジオで問いかけた。『誰かの役に立てない日も、生きていていいんでしょうか』 それは、誰かに向けた問いであると同時に、こはる自身がずっと自分に投
第15話 こはるの母からの電話 白瀬こはるの母親から連絡が来たのは、昼過ぎだった。 その日は、ラジオを休みにする予定だった。 こはるの喉は昨日より落ち着いていたが、まだ長く話すと掠れる。 真柴さんからも「今日はなるべく声を使わないでください」と連絡が来ていたし、芽衣も「今日は完全休養。補給班命令」と言っていた。 だから、喫茶こもれびの昼は比較的静かだった。 源三さんは午前中に来て、コーヒーを飲み、いつも通り「まずい」と言って帰った。 佐伯さんはナポリタンではなく白湯だけ頼み、「白湯って、何もしない味がするわね」と謎の名言を残した。 八百屋の親父さんはきゅうりのポップが気に入ったらしく、「まっすぐじゃないけど、ちゃんと冷たい」が売れていると報告しに来た。 こはるは窓際の席で、ホワイトボードではなくメモ帳に新しいポップ案を書いていた。『古いゲーム機です。 でも、負けた時の悔しさは新しいです。』 ゲームセンターの朝日さん用らしい。 俺がそれを見て「名文だけど客が怖がらないか」と言うと、こはるは少しだけ笑い、下にこう書き足した。『勝ったら、もっと新しいです。』「商売が分かってきたな」 俺が言うと、こはるはホワイトボードに書いた。【商店街に染まってきました】「染まると戻れなくなるぞ」【少し怖いです】「だろうな」【でも、嫌じゃないです】 その文字を見て、俺は少しだけ安心していた。 嫌じゃない。 最近のこはるは、その言葉をよく使うようになった。 好き、と言うにはまだ怖い。 楽しい、と言い切るにはまだ心が追いつかない。 でも、嫌じゃない。 そのくらいの距離感が、今の彼女にはちょ
第14話 芽衣は、少しだけ面白くない 日向芽衣は、明るい。 少なくとも、この商店街ではそういうことになっている。 日向弁当の娘。 いつも声が大きくて、配達用の自転車を全力でこいでいて、揚げたての唐揚げを一つ多く入れたことを母に怒られ、父の揚げすぎを止め、常連の老人に雑に絡み、客の愚痴を「はいはい」と聞き流しながら、最後には笑って弁当を渡す。「芽衣ちゃんがいると、店が明るくなるね」 そう言われるのは、嫌いではなかった。 むしろ、嬉しかった。 自分がいることで、誰かが少し楽になるなら。 沈みかけた商店街の中で、日向弁当の灯りが少しでも明るく見えるなら。 それは、まあ、悪いことではない。 でも、たまに思う。 明るいって、便利な言葉だ。 明るい子は怒らない。 明るい子は面倒を拾える。 明るい子は、冗談で返せる。 明るい子は、ちょっと傷ついても次の日には笑っている。 そんなルール、誰も言っていない。 言っていないのに、いつの間にか自分で守っている。「……面倒くさ」 芽衣は日向弁当の厨房で、卵焼きを巻きながら小さく呟いた。 朝の仕込みは戦争だ。 父は唐揚げを揚げている。 母はレジ横の予約表を確認している。 炊飯器からは湯気。 まな板の上には、刻まれた漬物。 ラジオからは、天気予報と交通情報。 いつもと同じ朝。 なのに、芽衣の頭の中には、昨夜の匿名ラジオのコメントが残っていた。【元気そうって言われると、元気じゃないって言えなくなる】 あれは、たぶん自分にも関係がある。 認めたくないけど、ある。「芽衣、
第13話 白湯ラジオ、二回目 翌朝、喫茶こもれびのカウンターには、おにぎりと卵焼きと白湯が並んでいた。 喫茶店とは。 いや、もう考えないことにした。 この店は、数日前から喫茶店というより避難所であり、商店街会議室であり、謎の匿名ラジオ局であり、日向弁当の出張所でもある。 コーヒーだけは一応ある。 ただし、常連の老人から毎日まずいと言われる。 俺はカウンターに立って、昨夜の短い配信アーカイブを確認していた。『夜の商店街、まだ明かりついてます』 二回目……と呼ぶには少し短かった。 正確には、予定外の短い放送。 テーマは、優しい言葉が怖い日。 こはるは、たどたどしい声で言った。『優しい言葉が、怖い時があります』 その言葉は、コメント欄に思ったより深く刺さっていた。【分かる】【大丈夫?って聞かれるのしんどい時ある】【元気そうって言われると、元気じゃないって言えなくなる】【おにぎり食べます】【白湯とおにぎり、優勝】 最後だけ急に生活感が強い。 だが、悪くなかった。 むしろ、このラジオはそういうものなのかもしれない。 深刻な話をしているのに、最後は白湯や卵焼きやおにぎりへ戻ってくる。 逃げているようで、逃げていない。 重いものを、食べられる大きさに切り分けている感じ。 俺には、そう見えた。 ソファでは、白瀬こはるがホワイトボードを膝に乗せて座っている。 声はまだ完全ではない。 昨夜、少し話した後はまた喉が詰まった。 真柴さんからも「声は短時間のみ。無理をしないでください」と追加の連絡が来ている。 業務指示が少し人間らしくな
第12話 神谷レンは、優しい顔で火を近づける 神谷レンという男は、昔から文章がうまかった。 うまい、というより、綺麗だった。 角がない。 刺がない。 読み手が勝手に好意を補ってくれる余白がある。 たとえば、今朝届いたメッセージもそうだ。【昨日の配信、聞いたよ。いい声の子だね】 ただ読むだけなら、褒め言葉だ。 昨日の匿名ラジオを聞いた。 声がよかった。 それだけ。 何も悪いことは書いていない。 誹謗中傷でもない。 脅しでもない。 むしろ、優しい。 けれど、その「優しさ」の形が、俺の胃の奥を冷たくした。 いい声の子。 それは、こはるの一番柔らかい場所に触れる言葉だった。 彼女は声で生きてきた。 声で救われ、声で求められ、声で追い詰められ、声が出なくなった。 それを知っているのか。 知らずに言ったのか。 どちらにしても、嫌だった。 俺は喫茶こもれびのカウンターで、スマホを伏せたまま、しばらく動けずにいた。 午前中の店内は、いつも通り静かだった。 源三さんは新聞を読みながら、まずいコーヒーを完飲している。 芽衣は弁当屋に戻ったり、また来たりを繰り返している。 こはるは窓際の席で、ホワイトボードを膝に置き、昨日のアーカイブのコメント欄をゆっくり読んでいた。 たった十二人のコメント欄。 その小さな場所が、今の彼女には大事だった。 だからこそ、俺は神谷レンのメッセージをどう扱うべきか迷っていた。 見せるべきか。 見せないべきか。 隠せば、こはるは今の穏やかな顔のままでいられるかもしれない。
第11話 同接十二人の朝 朝になっても、十二という数字は消えていなかった。 喫茶こもれびのカウンターに置いたノートパソコンの画面に、昨夜の配信アーカイブが残っている。 番組名は、まだ少し照れくさい。『夜の商店街、まだ明かりついてます』 最大同時接続数、十二人。 総再生数、三十四。 コメント、二十七件。 どれも、昔の俺なら気にも留めなかった数字だ。 いや、気にも留めなかったどころか、見た瞬間に胃が沈んでいたと思う。 登録者八十万人の頃、同接が少し落ちただけで、俺は配信後に何度もアナリティクスを見直していた。 何分で離脱されたか。 どの話題でコメントが減ったか。 どのゲームなら数字が取れるか。 次は誰とコラボすれば伸びるか。 そんなことばかり考えていた。 十二人。 昔の俺なら、敗北の数字だった。 でも昨夜、こはるは言った。「十二人も、いました」 その声が、まだ耳に残っている。 細くて、掠れていて、泣いた後の、でもどこか嬉しそうな声。 俺は、パソコン画面を見つめながら、冷めかけたコーヒーを飲んだ。「まずい」 自分で言ってしまった。 悔しいが、まずい。 源三さんに毎日言われているせいで、味覚まで洗脳されてきたのかもしれない。 ソファの方を見る。 白瀬こはるは、毛布にくるまって眠っていた。 昨夜の配信後、彼女は卵焼きを一切れ食べ、白湯を飲み、それから力尽きるように眠った。 スマホはタオルに包まれたまま、テーブルの端に置いてある。 途中で何度か震えた。 俺のスマホも、何度も震えた







